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喜劇映画研究会 1977年

喜劇研究会

 喜劇研究会は明大OBの社会人が多くを占めていたサークルで、国内外の映画・TVや演劇・落語など、古典・新作を問わずに研究対象としていた。現在に至るまでの当会とは直接的には別団体。当時、月1回の会合にてメンバー間での論評やギャグネタを披露していた。KERAを含むその頃の喜劇映画研究会の3名(しかいない)が喜劇研究会の最年少会員として籍を置いていた。「喜劇新聞」は'79年5月1日に発刊された一応の会報で、とりあえずの販売価格も明記されていた。ワープロなどの一般普及がない時期ゆえ、手書きの原稿を簡易印刷したものであった。今となっては発行部数はわからないが、編集者の本業の都合や原稿の集まり具合などから、翌月の2号を以ってあえなく廃刊。ただし、記事の執筆者に、現在活躍中のお笑い研究家・原健太郎氏の名も見られる事から、プレミアモノの資料であるかもしれない!?

 喜劇研究会はこの後に自主制作の喜劇映画コンテストを企画、情報誌「ぴあ」「シティロード」に広告を載せるが出品者はなく、KERAの喜劇映画研究会の活動へ協力するかたちで自然消滅した。

<附記>

 2000年7~10月に原健太郎氏から当時のエピソードをいくつか聞くことが出来たので、以下に要約して紹介。

  • 「喜劇新聞」は1980年3月発行の第8号まで続いた。創刊号が4ページ、最終号では8ページとなっていた。
  • 「喜劇新聞」発行以前には「喜劇界」というB5判の雑誌が作られていた。1978年5月に創刊号が発行され、同年11月の4号で終了。
  • KERA(=ケラリーノ・サンドロヴィッチ)となる前の小林一三(当時、高校一年生)が『マルクス兄弟映画論』を、原氏が『ムーラン・ルージュの新喜劇運動検証』を寄稿していた
  • 当時は喜劇研究会の中に原氏の所属していた演劇サークル(明治大学・騒動舎)と小林の上映サークル(喜劇映画研究会)がある、という構造であった。 ⇒ <附記2> にて訂正!
  • 中学三年生だった小林と同級生2名が喜劇研究会に入会した時(勿論彼らが最年少)、最年長のメンバーは30代半ばであったとの事。運営の苦労が偲ばれる。
  • 喜劇研究会設立の経緯は、クレイジー・キャッツ・ファンクラブ(ナベプロ公認)の会長(当時、早稲田大学に在籍)と副会長(当時、青山学院大学に在籍)がハナ肇氏より薫陶を受けて、氏のお笑い芸能を達観せよとの命によって始まったとの事。
    アッと驚くタ~メ~ゴ~ロ~!!

<附記2>

  • 2008年6月6日に原健太郎氏から伺ったお話によれば、当時の喜劇研究会には明治大学2年の原氏(騒動舎の発起人)が所属していただけで、他の騒動舎メンバーは喜劇研究会の構成メンバーではなかったとの事。
  • 原氏を通じて騒動舎メンバーが「喜劇新聞」へ寄稿、高校生のKERAが誘われて騒動舎の公演に協力した等、この辺りの事情をKERAが認識していなかったようで、'喜劇研究会は多くの明大生OBで構成されている'と思い違いをしていた。
  • 長年に渡って一部の間では'喜劇研究会所属の明大生が演劇ユニットを組んで騒動舎へ発展した'という解釈がなされていたが、これはまったくの誤りで、原氏は喜劇研究会へ入会するより前の時点で既に騒動舎を立ち上げていた。

※現在、同志社大学を拠点に関西圏で活躍中の「喜劇研究会」とは設立の時点から別団体で、特に協力関係もありません。また、当会の前身=喜劇研究会メンバーだった原健太郎氏は、現在「東京コメディ倶楽部」と「東京喜劇研究会」で執筆活動や演劇などのイベント企画で活躍中。

1978年8月の喜劇研究会最年少メンバーズ


左から3人目が小林一三(KERA)。
その背後に当時は門外漢だった新野敏也の姿が!

1977年当時のKERAの手になる手書きのパンフレット