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トップページ > 活動史(20世紀) > 喜劇映画研究会 2000年 喜劇の伝統
喜劇映画研究会 2000年

喜劇の伝統
~喜劇映画テクニックの完成者マック・セネット~

【日 時】2000年6月10日(土)
     14:00~16:00
【場 所】成蹊大学
     3号館102多目的教室
【主 催】成蹊大学 文学部学会
【協 力】喜劇映画研究会

 

 

 

 

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日比野啓氏

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当会代表・新野

 成蹊大学文学部にて教鞭をとる日比野啓氏(英米文学・演劇論)の二年生対象の基礎演習「喜劇の伝統~アリストファネスから松本人志、猫ニャーまで~」の一環として企画された特別授業。

 日比野氏はインターネットを通じて当会ウェブページを知り、舞台喜劇の延長として「1920~30年代のアメリカ喜劇映画を紹介」の目的でマルクス兄弟等のフィルム貸与について相談されたのだが……氏のゼミが<お笑い研究>をテーマとしているためか、学生には災難のジョーク<喜劇映画研究会の特別授業>へ変更となった!?

 当会代表・新野の講演では座興にしかならないという世間の絶望的期待にとことん応えるべく、講演は一般も受講可能なオープンセミナーに発展、かくして当会メンバーが全員出動での準備が始まった。テーマ「喜劇の伝統」が「悲劇の末路」にならないよう、参考上映には映画黎明期からトーキー発明までの20作品をビデオ編集し、体系的に映画史、技術史、演出法の変遷をまとめ、テレビの特集番組さながらの構成で授業は進められる。

 その結果、<映画誕生とほぼ同時期に芸能界に入ったマック・セネットという人物>を軸にした講演は、初めてサイレント映画史に触れる人々からも最大級の称賛をいただいて、一応は成功裏に終了となった。本来の学内ゼミ受講者以外の人々も几帳面にノートを取っていたことが不思議!! 絶対的な情報量でいえば、他所では実行不可能な内容ではあったかもしれない。

 

 以下は平成12年度の文学部2年生、大槻さんが後日に学校に提出したレポートです。新野の講義の加えて独自の資料調査もされているので、講演当日の内容とは若干の違いがありますが、非常に丁寧なレポートなので学校側の許諾を得て全文を掲載させていただきました。(文字コード、改行コードなど一部変更)

成蹊大学 文学部学会主催 公開講座
協力 喜劇映画研究会
喜劇映画の伝統~喜劇映画テクニックの完成者 マック・セネット~
喜劇映画研究会代表 新野 敏也氏の講演レポート

基礎演習D L991038 大槻 麻由子

 

(1) 映画の歴史のはじまり

 1895年12月28日、フランスのオーギュスト&ルイ・リュミエール兄弟が、パリのキャプシーヌ通りのグラン・カフェにて35人の観客(実業家など)を集めてシネマトグラフ(Cinematographe)を上演したことによって、映画の歴史は幕をあげた。

 彼らは写真屋の生まれで、「のぞきからくり」や母親の使っていたミシンからヒントを得て撮影機を発明し、映画を上演したのである。映画といっても彼らは映画を写真の延長としか捉えておらず、彼らが映したのはいわゆる「記録映画」や「ニュース映画」であった。具体的に作品名をあげると、『列車の到着』や『工場の出口』などである。後に映画は大衆演芸として発展する。

 リュミエール兄弟を記録映画の祖とするならば、SF映画の祖はジョルジュ・メリウスになるだろう。彼は記録映画とは違うもっと幻想的な作品をトリック撮影した。彼は自家用のステージを作り、屋内で映画を作製した。1902年の『月世界旅行』は有名である。彼はこの作品で時間や場所を一瞬にして変えるというトリックを用いた。これらのほかにも二重焼き付けや逆回しなどの技巧を用いている。

 やがて、映画が大衆向けの演芸ではなく、産業として成り立つのではないかと人々が思うようになるのもこの頃である。

(2) 1900年代、映画スターの誕生

 1900年初頭、映画スターとして名前が売れていたのはマックス・ランデー(彼はあの有名なチャールズ・チャップリンに影響を与えた人物である。)、フェルディナン・ギョーム、マルセル・ファーブルなどである。この頃、イタリアやフランスでは映画会社が次々と設立され、競争が激しくなってきていた。

また映画スターが誕生した頃からコメディーやドラマといったジャンルが確立されるようになった。しかし、庶民の間では「ドタバタ喜劇」なるものが人気を博していたのである。

(3) 1910年代、マック・セネットの登場

 マック・セネットが映画界に登場する。そしてスラップスティック・コメディーが確立されるようになる。マック・セネットはアイルランド出身で、もとは役者志望であった。彼は当時ヨーロッパで流行っていたパントマイムやアクロバット中心の「ドタバタ喜劇」を、ヴィクトリア調の中流階級の家庭を中心とした家庭ドラマを撮っていたアメリカに持ち込んだのである(当時のアメリカで人気があった映画スターはジョン・バーニーである)。セネットの作品の多くは、警察を罵倒するものであり、これは後にチャップリンに引き継がれることになる。彼の作品の特徴としては、ただパントマイムをするのではなく、撮影の時に移動しているものから移動しているものをとるという技巧を用いたというものであろう。彼はキーストンという映画製作会社に入った時からコメディー(短編喜劇)を作り始めたといわれている。これが事実上アメリカ喜劇の始まりである。そして1920年代に入り黄金時代を迎える。その当時作られた作品はハロルド・ロイドの『要心無用』(1923年)、チャールズ・チャップリンの『黄金狂時代』(1925年)、バスター・キートンの『キートン将軍』(1926年)などである。どれも彼らの身体を使ったコメディーで人気を呼んだ。

(4) マック・セネットの影響力

 マック・セネットがキーストン社時代に作った作品は道化がよくでてくる。しかしそんなセネットのある意味身体を張った「ドタバタ喜劇」を排除しようとしたのが前出のハロルド・ロイドやハル・ローチである。彼らは自らが道化に扮するのではなく、あくまで2枚目に扮して映画に登場した。彼らの作品は「シチュエーション・コメディー」である。「ドタバタ喜劇」の場合は主人公が道化を演じ笑いをとるというものであったが、シチュエーション・コメディーの場合は違うようである。またシチュエーション・コメディーの場合は、種明かしがはっきりしているというのも特徴の1つであるかもしれない。

(5) 1927年、トーキーの誕生

 トーキーは無声映画と違いフィルム上の録音帯(サウンド・トラック)に音を記録し映写時に画面と同調させて再生する映画である。無声映画のときは楽団や蓄音機を用いたり活動弁士を通じて外から音を加えていたことはあったが、映画自体は音を発していなかったのである。このトーキーがアメリカに登場し、人々がトーキーを見始めたために(人々は音が出ただけで、大喜びしたらしい)、それまで映画界で全盛していた「ドタバタ喜劇」は廃れてしまい、マック・セネットは映画界を去る。また漫談や歌を取り入れたコメディーが人気を博すようになった。当時のアメリカでは部分的に音を出すパート・トーキーや台詞がなく音楽だけのサウンド版などが人気を博していた。

 こうしてサイレント映画はその栄華の時代を終えたのである。

(6) 1949年

 撮影所が次々と作品を生み出し、映画が産業として頂点を迎えたのがこの時期である。  

 今日我々が映画草創期を振り返って言えることは、技巧とか手法とか何もない時代に映画を作ったということはすごいことであり、すごい発想である。

 「どう映したらどう映るのか。」と何も工夫もない人が工夫して作品を生み出し今に至っているという事実はとてもすごいことである。今こうしていろいろな映画がいつでも見れるが当時の人々の映画製作に対する姿勢はもう1度見習うべきなのである。

 

参考資料文献

読売新聞社編『映画100物語 外国映画篇1895-1994』(読売新聞社)